江戸時代絵図

お寺の歴史

曹洞宗慈照山日輪寺はもと真言宗の寺院で、平安時代中期、武蔵国豊嶋郡小日向村の惣鎮守・氷川明神社の別當として、現在地に創建されたと伝えられています。将門の乱を平定した平貞盛が、氷川明神社を勧請した天慶三年(九四〇年)の事であると言われていますが、今からおよそ千七十五年前の事です。長禄元年(一四五七年)扇谷上杉定正の臣・太田道灌(資長)が江戸城を築き、氷川明神を江戸城の奇問除けの鎮守と崇敬して、文明年中(一四六九~八六年)に六万坪の社地を寄進し、別當日輪寺に命じて中興させたと『氷川明神略縁起』に記されております。「・・・・・・当社明神の霊夢を蒙り 城門の鬼門にあたるとて鬼門除けの鎮守と崇参り 境内六万坪餘寄付 當社再建を別當某に託・・」『氷川明神略縁起』より慶弔八年(一六〇三年)、関が原で大勝した徳川家康が江戸幕府を開きます。此の当時の日輪寺は創建以来真言宗に属する寺院でしたが、

慶長十三年(一六〇八年)幕府の本末制度により、松栖用鶴大和尚(吉祥寺八世)によって曹洞宗に改められ、吉祥寺(現、駒込)と本末関係を結びました。吉祥寺は、徳川家康の帰依も厚く歴代住職に対し常に師としての礼を欠かさなかったと言われ、後に江戸曹洞宗三ヶ寺の一つに数えられております。江戸時代も寛永年中(一六二四~四三)に入ると幕府の基盤も確立されます。江戸に定住した旗本や、各藩の江戸定府となった武士たちは、江戸における菩提寺を定める必要に迫られました。寛永十七年(一六四〇年)幕府によって寺請制度が公布されます。切支丹禁圧にともなう宗旨人別改めが主要な目的でしたが、この制度によって檀越関係が成立し、近世仏教の庶民への布教に大きな貢献を果たしたと言われます。この頃の住職は、菩提寺住職の役割とともに、学問の師としての役割も担っておりました。諸国を巡錫する僧や参禅に訪れる旗本たちが増え、境内に衆寮が建立されたのもこの時代です。日輪寺は当時多くの旗本たちが帰依し、俗に「旗本寺」と呼ばれておりました。元禄年中(一六八八~一七〇三)になると庶民の生活も安定し、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになります。此の当時、境内には弁天堂が建立され、又、釈迦三尊像をはじめ、弘法大師作と言われる大黒天、閻魔大王、氷川明神社本地仏・十一面観音像に参詣する人が後を絶たなかったと言われます。

享保十年(一七二五年)、日輪寺は本堂を焼失しましたが、御本尊をはじめ諸尊像は焼失を免れたと言い、同十三年「三間梁二七間」の本堂が再建されたと「寺社書上」に記されております。江戸文化が最も花開いたと言われる文化・文政(一八〇四~二九)の頃になると、日輪寺周辺の地は江戸随一の風光明媚な景勝地として知られ、文人墨客の杖を曳く姿も多かったと言われます。江戸年間に於いて日輪寺の寺運が最も隆盛となった時期であるとされ、『遊歴雑記』の著者・津田十方庵も日輪寺を訪れております。門前を流れる上水に架けられた木造の双龍橋が石橋となり、十一面観音堂が再建され、境内に賑やかさが訪れたのは當山十四世・来道碩元大和尚の時代と言われます。慶應四年(明治元年・一八六八年)江戸幕府が終焉を告げ明治新政府が樹立されると「神仏判然令」により、氷川明神別當職を解かれ、境内地は全て官有地として召し上げられてしまいました。旗本寺と言われていた往時の檀越は多くが武士でしたので、大半の檀徒家を失った訳です。そうした中、十九世・正宗全暁大和尚は氷川明神社の社殿を境内に移して観音堂とし、十一面観音菩薩像を安置致しました。此の、像は戦火も逃れ平成二十四年に見事に修復が叶い、現在の本堂内に安置されております。庶民の厚い信仰が寄せられた甘酒婆地蔵尊は、

明治十六年(一八八三年)に境内内に移され、現在まで「咳・咽喉」の病に効能があると言われ、参詣者が多く訪れます。大正八年(一九一九年)當山廿一世・德全宥法大和尚が晋山しました。軍国主義の激しい時代、第二次世界大戦の折には五月の空襲に遭い、全堂宇を失ってしまいました。残念ながら、戦火を逃れる事の出来なかった多くの仏像や、古文書など貴重な資料を失いました。戦火を逃れた御本尊釈迦如来坐像、十一面観音立像二体、過去帳、大黒天が現在も堂内に祀られております。戦後七十年、我が国の様子も様変わりし、特に東京都心部に残されている現境内地は本堂の裏手に回ると、千年を超える自然豊かな庭園があります。山から湧き出でる清水が心字池を満たし、その背後には竹林が涼しげに移ります。山内では、春になるとカルガモが飛来し小鴨を産み、多くの野鳥が羽を休めています。蛇、蛙、沢蟹も沢山生息しており、文京区の保護樹林にも指定されているこの境内地をあるがまま残して参る事が、當山にとっても又、江戸城鬼門消しの役割を鑑みるに、江戸東京にとっても一番大切な事と現住職は修行の日々を送られています。